市田柿の由来


昔から、秋になるとあちこちで見られた柿すだれは伊那谷の風物詩のひとつとされてきました 

 

伊那谷における市田柿の現状

 市田柿の故郷、伊那谷は、長野県の中心にある諏訪湖を源とする天竜川を挟み、中央アルプスと南アルプスに囲まれた、全国的にも有名な河岸段丘の谷あいの地域です。
この地域は温厚な気候に恵まれており、収穫出来る農産物は稲作を始めとして、果樹、野菜、花卉等数多く、まるで桃源郷のような所です。  
その数多くの農産物の中でも、全国的に名の知れ渡っている物が市田柿です。
秋の深まりとともに、田には黄金色の稲が実り、稲刈りが始まり稲はざがどこの田にも並び終えた頃、赤く色付いた柿が枝にたわわに実り、市田柿の収穫が始まります。 収穫された柿は皮を剥かれ、各農家の軒先に吊されます。
これを柿スダレと呼びます。
この柿スダレは、古くから伊那谷の風物詩の一つとされてきましたが、近年、農業の近代化とともに、この風物詩を見る事も少なくなって参りました。  

 

日本における柿の栽培は古く、文献によると奈良時代にさかのぼるとも言われてます。
その時代に中国や朝鮮より渡来したと伝えられる説と、日本自生説とがあり、柑橘、棗(なつめ)、栗等と共に五果と言われて珍重されてきました。 
串柿は、神棚やお供えの上に供えられたりしている事がそのなごりではないでしょうか。
また、茶の湯が盛んに行なわれるようになってきた室町時代には、茶菓子として使われました。
菓子は古くは、「果子」と書かれていたように、自然の果実の甘味が贅沢品として用いられてきました。  
日本には柿の品種が多く、現在1000種はあろうと言われています。
また、来歴の古い事も果樹類のうちでこれに及ぶ物はありません。
柿は、北緯30~40度の間に広く分布し、南は鹿児島県から北は青森県にわたり、自生または栽培されています。 
気温てきには、年平均9℃を限界温度として、それ以下では栽培種、自生種共に見る事は出来ません。
長野県に於いても標高1200m地帯になると柿の木ははとんど見られなくなります。 
土質はやや粘質を帯びた砂質土で、排水の良い所を好適地とされています。
伊那谷には古くから干し柿があり、どの家の庭にも植えられていました。
江戸時代の『本朝食鑑』には、「信州の立石に小串柿と言うのがある‥・味が浅く、稍(やや)佳(よ)いものである。」と記されています。
立石柿が当時、江戸で食べられていた事がうかがえます.また、飯田市の立石寺には江戸時代の柿問屋さんらが奉納した柿の絵額が2幅あります.1幅は天竜川を下り駿河湾に出て、江戸へ運ぶ道筋と、もう1 幅は馬の背に乗せて山越えをしているものです。
この様に飯田の柿は古くから有名でした。この柿は立石柿と呼ばれて栽培されていましたが、粒が小さいのと種が多い事から次第に市田柿に更新されてきました。

 

市田柿の由来についてはいろいろな説があります。

◎昔、伊那郡市田村下市田に作兵衛という熱心な百姓がおり、白い鳥の落とした種を撒き成長させたところその実は色合いも良く大粒で近所で評判となり広まったと言われる. (長野県の園芸より)

◎下市田の伊勢講の人々が文化年間(1804~1817年)に伊勢神宮のご分霊を勧請して社地を設け一祠を造営して伊勢社と称した。 この屋敷の片隅に柿の古木があり、焼いて食べても美味しく他の柿にない味のよい物であった。その後、三州田原藩士の児島礼順と言う漢学者が広め、次第に栽培される様になった。(高森町史)

◎飯島にある臨済宗の古刹東谷寺の前庭に柿の古木があった。江戸時代に美濃の正眼寺で修行を終えた住職が持ち帰った物とのことで炊き柿のことを古くは東谷柿と呼んでいた。 (飯島町桃沢氏説)

 

江戸時代の明歴元年(1688)頃には504本植えられており、明治18年には728本、又、昭和18年には950本が栽培されていたとの記録が残されています。
大正10年「焼き柿」を「市田柿」に改名し、栽培方法や、加工技術を長年に渡り研究を重ねて、現在の市田柿となって参りました。
干し柿としては全国的に知れ渡り、今では海外(台湾など)へも輸出されています。 その人気の秘密は色の良さは言うまでもなく、大きさ、食味の良さに優れ、天然の味としてこれ以上の物はないと言われています。 
近年の健康食ブームに乗り、干し柿の成分が注目されてきています。 現在、高森町には約6000本程の市田柿の木が植えられており、近隣町村にも数多く植えられております。ここ数年、他の果物の価格と比べると、 市田柿の価格が安定している事から、市田柿を植える農家が増えてきています。
しかしながら、農業就労者の高年齢化と共に、農業後魅者の不足により、今後の市田柿の収穫量は減少するのではないかと思われます。
  国内での干し柿の需要量は、国内生産量が過半数を占めていましたが、平成3年頃から輸入量が国内生産量を上回るようになってきました。
さらに増加傾向にあり、そのほとんどが中国の河北省や山東省からのもので、これから技術が向上してくれば、市田柿の主産地が変わる可能性もあり危惧される所です。
しかし、市田柿の需要は、先に述べたように健康食品の代表的存在でもあり、店頭販売はもちろんでありますが、菓子の原料や料理の材料として近年需要が高まってきています。
市田柿の生産過程 良い干し柿を作り上げるには、大変な手間をかけなくてはなりません。

簡単に年間の作業をあげますと

1月から3月頃までに 剪定作業施肥
3月下旬から9月中旬 殺菌剤・殺虫剤散布
摘果( つき過ぎた果実を落とす作業)
施肥
灌水( 乾燥が続く様な時には行う)
10月下旬 柿収穫
皮剥き 
硫黄燻蒸 
吊し天日乾燥
下ろし柿( スダレから下ろす作業) 
へた切り 粉だし( 柿もみ乾燥を繰り返す) 
施肥お礼肥

 

最近は、柿剥きや柿もみは機械化が進み、省力化が出来ておりますが、その他の作業は依然として手作業が多く、大変な労力が必要とされます。
柿の木から実を採るという作業は、年配の方には危険を伴なうものです。柿の木から落ちて命を落とすという事も聞かれました。
柿の収穫から、製品になるまでには約1カ月かかります。この間天候に気を配り、雨や湿度が高ければ除湿機や扇風機などを使い、 カビの発生を防ぎ、乾き過ぎる時は太陽や風に当てないように寒冷沙などで覆い、細心の注意を払って仕上げて行きます。
管理の仕方は各農家により多少違います。 各農家の管理の仕方や、その農家のある地形や乾燥場所などの違いによって、十人十色と言われる位様々な干し柿が出来上がります。
近ごろ地球温暖化と言われますが・その影響かも知れませんが、従来の柿をむいていた時期と少しずつ遅れてきている様に思えます。
又、果実自体も少しずつ大きくなってきている様にも思えます。(栽培技術の向上もあると思えますが)それと、病害虫の発生も多くなり、 それを防止するために防除の回数も増えてきています。以上のように、市田柿は体に大変にいい物であり、又、大変に手間のかかるものであります。
幸いにも市田柿は関係機関の努力によって、栽培農家の間に「将来性があり・割りの合う作物」として発展させようとの気風を育んできていますが、飯伊地域の農家数は、 今後減少の一途をたどると予想されます。また、就労人口も減少し農業経営は厳しい状況となってくることと思われるので、 消費拡大に繋げるような事を今のうちに考えておく必要があると思われます。